すぐやることの大切さを、84歳のばあちゃんに教わった話。

2018年10月27日、僕の父方のばあちゃんが天に昇りました。

 

真っ白な白髪でかぼそくて、認知もかなりきていたばあちゃんでしたが、たまに実家に戻って顔を合わせると、『帰ってきたかい』ってニコッと笑って出迎えてくれました。

 

僕の両親は共働きでしたので、幼少期はよくじいちゃんとばあちゃんに面倒を見てもらっていました。

 

まだ僕が幼い頃は認知もなかったし身体もしっかりしていたので、直近のばあちゃんとは考えられないくらいハッキリとした物言いで良く怒られていました。

それでよく言い合った時もあります。

 

そんな時でも腹が減ってばあちゃんのふな焼き(黒砂糖に焼いた小麦粉を巻いたもの)が食べたいと言うと、嬉しそうに作ってくれました。

 

ばあちゃんが認知が出始めて変わっていったのは、

僕の両親と妹と4人で実家を出てからでした。

 

原因は僕の母とじいちゃんとの間で亀裂が生じたためで、同じ市内のアパートに引っ越した後から少しずつ変わっていったのだそうです。

 

じいちゃんは飲み歩いたりパチンコに行ってばかりで、ばあちゃんとはほとんど会話をしていなかったとも聞いています。

 

アパートには7年ほど住み、ばあちゃんの容態も悪くなってきたためそろそろ戻ろうかと言うことで実家に帰ることになりました。

 

一度悪くなり始めたら早いもので、しゃべり方から歩き方、反応、どんど遅くなってきました。

 

こんなばあちゃんの変わりようを見て、【小さい時は言い合ったりしたけど、自分の時間を犠牲にして僕のことを見てくれていたんだから、きちんとばあちゃん孝行したい】と思うようになりました。

 

しかし、その時の僕はお金もなく仕事も忙しかったため、自分の身の回りのことで精一杯な状態でした。

 

もっと自分が経済的・精神的余裕ができてから、最高のばあちゃん孝行をしてあげようと考えていたのです。

 

そう思い立ってから1年、2年と、月日はどんどん流れていきました。

 

そして、ばあちゃんは逝きました。

 

結局、なんにもしてあげられなかった。

 

 

この記事を読んだ方々へ、

 

何かを思い立ってから、

状況が落ち着いたらやるとか

お金が貯まったらやるとか

明日からやるとか

そんなこと思わずに、すぐにやってください。

 

大きなことをしなくても良いと思います。

小さなことの積み重ねを継続的にやりましょう。

 

自分のためにやることもそうですが、

相手のためにやることで、大きいも小さいもないです。

 

相手はどんなに小さなことでも、相手のために一生懸命やってあげたことは、必ず嬉しく思うし心に残ると思います。

 

あなたは行動を起こすタイミングを間違えて、一生《後悔》する人生を送りますか?

 

両親、兄弟、祖父母、恋人、子供、愛犬などなど、

あなたが大切に思っている人たちに、

今できることはなんですか?

 

あなたの人生において、《後悔》という言葉が1つでも多くなくなりますように。

 

koroppe23のプロフィール 誕生〜大学生編

はじめまして、koroppe23と申します。

プロフィールで超簡単に自己紹介をしていますが、ここではもう少し掘り下げて

僕の魅力(←黙れ)を伝えたいなと思います。

※ちなみに23はバスケが好きな僕がマイケルジョーダンの背番号を勝手に拝借しただけです深い意味はありません。

 

 

 1、誕生

 2、幼少期

 3、小学校時代

 4、中学校時代

 5、高校時代

 6、専門学校時代

 7、大学時代

 

 

僕は、長崎県のとある産婦人科で生まれ、すぐに父の実家がある福岡県に移り住みます。

幼少期から大学までをこの福岡県で過ごしてきました。


幼少期は特に人見知りはなく、誰とでもすぐに打ち解けていたらしいです。
周りと遊ぶことももちろんあったようですが、「ブロック」や「パズル」など一人で黙々とできる遊びを好んでしていたようで、
生まれてすぐの頃から≪ぼっち≫の素質を垣間見せていたみたいです。


幼稚園に上がる頃からはうっすらとですが記憶もありますので、両親の話と僕の記憶を交えながら書いていきます。

幼稚園には特に嫌がることもなく喜んで行っていました。
お遊戯会や運動会の行事ごとも一生懸命取り組んでいましたし、年中さんの時のお遊戯会では、
主役(花咲か爺さんの良いおじいさん役)に抜擢されました。
友人関係は、ある決まった3・4人の友達と、飛行機ごっこ?みたいなことをして遊んでいたことを記憶しています。
どちらかというと目立って活気があるグループにいるよりも、あまり目立たないおとなしめなグループと一緒にいました。
この頃、初めての恋をし、同い年の女の子二人を同時に好きになって勝手に困惑していました。


そんな感じで小学校に上がるわけですが、この頃から少しずつ対人関係において違和感を覚えるようになります。
そんで、いきなり自慢みたいになってしまうんですが、小学校時代は成績優秀・スポーツ万能、周りには溢れんばかりの愛想を振りまき、
まぁ端から見ればこれでもかというくらいの元気な優等生ぶりをかましてきました。
習い事は、水泳・バスケ・やっててよかった公文式!(←懐かしい)を掛け持ちしてやっていましたし、6年生では児童運営委員という、
全校生徒をまとめる役目を持つ委員会に所属していました。(ちなみに推薦され、やりたくてやったわけではありません)
運動会では紅白対抗や町内対抗など、なにかと選抜リレー的なものに出場していました。
一番力を入れていたバスケは、福岡県大会常連クラブの主要メンバーとして日々練習に明け暮れていました。

そんな誰もが羨む充実した小学校時代を送っていた僕ですが、学校には本気で行きたくなかったのです。

それはなぜか。主な要因は二つ。

いつ怒られるかという異常な不安を常に抱えていたことと、友達との会話が苦痛で仕方なかったこと。


話は少し変わりますが、僕の父は躾に関してかなり厳しい人でした。
食べ物の好き嫌いはもちろんダメ。就寝時間は21時と決められ、就寝後一時間は定期的に部屋に見回りに来る徹底ぶり。
何か気に食わないことがあれば徹底的に叱り倒す性格は、当時の僕からするとまさに鬼のようでした。

この父の元で育った結果、極力他人に嫌われたくない・怒られたくない・言いたいことが言えない→八方美人という僕の人格を形成してしまったのです。

 

言いたいことが言えない、伝えたいことが表現できないということは相当なストレスだったようで、吐き出せず色々と溜め込んでしまっていた僕は、小6の夏に拒食症になりました。食べ物を全く受け付けず(飲み物はok)当時の体重は30㎏なかったと思います。

他人とコミュニケーションを取ることが怖くなりだしたのは、この小学校高学年頃です。

 

中学に上がっても勉強とスポーツは良くできていたと思いますが、小学校時代よりも人と関わることをしなくなりました。関わらなければならない状況ではそれなりに接しますが、休み時間や昼食の時間、登下校時はだいたい一人で過ごしていました。良く話したり遊んだ友達は一人だったと思います。その友達に対しても、完全に心を許していたわけではなく、こんな自分に好意を持って接してくれているという感謝の気持ちの部分が大きかったのではと思います。自分から遊びに誘うことは一切なく、ほぼ相手からの誘いを受けて仕方なく動いていたという感じです。最低ですね。

ただそれだけ、この時期から他人に対しての興味というものが極端に薄れてきていたということです。

ただ、相変わらずの八方美人は健在でしたので、嫌われないための振る舞いは完璧でした。意見や反論も一切しませんでした。その為、周囲に嫌われるということはありませんでしたが、完全に周りからは舐められていましたね。体の線も細かったですし。

 

高校は地元では有名な進学校に合格することができました。(地元でその高校出身と言うと、だいたい尊敬の眼差しで見られる)

高校では、今でも頻繁にやり取りをする友達との出会いもあったり、交友関係には恵まれていたと思います。

しかし、中学まで割と天狗になっていた僕は、この高校生活で一気に自信を喪失します。

一つ目に、中学まで学年トップ10に入っていた成績が、まさかのワースト10となります。高校の勉強が全くついていけなくなりました。

うちの高校は文武両道がモットーで、大体の部活が地区ではトップ、一部は県大会に出場できるレベルでした。それ故、練習はかなりハードで、予復習をする前に睡魔に襲われる毎日でした。(ちなみに小学校〜高校までバスケ一筋です)

中学までは予復習などしなくてもある程度成績を維持できましたが、高校では無理でした。地元の中学のトップクラスの秀才がうちの高校に集まりますので、中学まではいかに井の中の蛙状態だったかを思い知らされました。

二つ目は、中学までだいたいスタメン起用されていた僕が、高校では顧問の先生と馬が合わずにほぼ試合に出してもらえなくなりました。そして追い討ちをかけるケガ。

自分は何をやってもダメなんだ、上手くいかないんだと、相当な自己嫌悪に陥りました。

進学校だったので、一部の高卒公務員を目指す人以外はほぼ大学進学を目指します。高校3年の春に部活を引退すると、流されるまま無条件に受験勉強が始まりました。周囲は地方国立大学程度は平気で合格できるレベルです。受験勉強は時間をかけてやってきました。今まで成績が悪かったのは部活を頑張り過ぎて勉強を怠っていただけだ。引退して勉強の時間が持てればすぐに周りに追いつけると思っていました。しかし、勉強すれどもすれども全く頭に入っていかないんですね。学力テストでも周囲はどんどん成績を上げていくのに対し自分は上がらない。結果センター試験では900点満点中500点いかない(自己採点)という散々な結果に。二次試験の方が出題レベルも高くなるのでもちろん惨敗。滑り止めのFラン私立大学にはなんとか受かり、進路に困るということはありませんでしたが、自分の能力の無さに絶望した高校生活となりました。

地元ではトップクラスの進学校に行ったというプライドからか、滑り止めで受けて受かった大学には行かず、もっとレベルの高い大学を目指すべく大学編入の専門学校に通う選択を取ることとなります。

 

 専門学校時代は、英語のクラス分けテストを経て一番優秀なクラスに振り分けられました。

ただ一番優秀なクラスなだけに、周囲の出身校もそれなりにレベルの高い高校を出ていました。(クラスメイトに出身校聞いて調べました)おそらく、僕が現役時代に目指していた大学以上の大学を志望している人たちがほとんどだったと思います。実際に僕が所属していたクラスでは、神戸大学九州大学名古屋大学広島大学熊本大学長崎大学明治大学関西大学辺りが一般的に知名度があり合格者が出た大学ですね。

僕はというと、下位クラスが目指す大学に妥協して入学しました。(実際は入学金の支払い等済ませていた為、そのお金を捨てるのはもったいないということで仕方なく進学を決めましたが)

しかし、進学を決めた大学を受ける前に、群馬大学関西大学西南学院大学を受験し、3大学とも落ちています。第一志望であった西南学院大学は、九州ではトップレベルの私立文系大学で実家から通いたかった僕にとっては是が非でも受かりたかったのですが、一次試験の筆記試験はパスしたのに、二次の面接試験で玉砕しました。

ここまで3連敗、受かっている大学のストックもなかった僕は、精神的にズタボロだった為、精神を安定させるべく下位クラスでも受かる大学を受験し、見事に受かり、入学金を支払い、進学を決めたという悲惨な結果を招いてしまいました。

要は何が言いたいかというと、現役で受かった大学とわざわざ編入までして受かった大学のレベルがほぼ一緒であった為、

僕は専門学生時代を無駄に生きてきたということになります。

交友関係に関しても、周りの友人とは趣味のジャンル等が特に合わず、同高校から仲の良い友達が一人きていた為にそいつとばかりつるんでいました。授業が終わってもバイトがあった為ソッコーで帰っていましたし、専門学校時代の思い出はほとんどありません。

ただ簿記のような商業・経済・経営系の資格やPCの資格を、自分のやる気次第では取らせてくれる学校だったし、現役時に受験失敗して浪人せずに費用を抑えて大学進学を目指す方であれば、良い学校ではないかと思います。

僕が通っていた専門学校のことについても、別の記事で詳しく書いていこうと思います。

 

擦った揉んだありましたが、無事に?編入学という形で大学生になることができました。

 

さぁ、少しばかり遠回りして手に入れた憧れの大学生活。

この晴れやかな瞬間を思いっきり楽しんでやろうと意気込んではいたものの、人に対して興味が湧かず、新しい友達が欲しいとは思いながらも面倒臭さが先行し、全く友達はできませんでした。コンスタントに話す友達は10人もできなかったと思います。授業は専門学校時代のメンバーと一緒に受けていましたが全く仲良くなかったので会話もほぼありませんでした。

大学はやはりしっかりと一年次から通うものです。周りはすでに仲の良いグループが出来上がって絆を深めあっており、コミュ障が割って入るにはなかなかハードルが高すぎます。しかも僕が通っていた大学は全校生徒の8割が女子でした。女より男友達が欲しかったのですが、周りが女子だらけで変に萎縮している男子たちの仲間意識はより強固なものとなっていました。なんかもう、みんなでウェイウェイするというより小規模で群れるみたいな。せっかくのキャンパスライフをわざわざ地味に過ごすこともなかろうと考えた僕は、結局地元の友達と連むようになりました。まぁ、居心地はかなり良かったんですがね。

大学で群れることがなかった僕は、淡々と単位を取り、淡々と就活を進めていました。

3年次の春休みには志望度の高かった企業から内々定をもらっていたので、当時最も志望度の高かった銀行への選考を全て蹴り、(ぶっちゃけ就活を早く終わらせたかったという理由が一番ですが)その企業への就職を決めました。また、単位もほぼ撮り終えていたので、普通の大学4年生と同じスケジュールで動けるようになりました。(また後日編入に関して書こうとは思いますが、3年次編入は入るのも大変だし、入った後も結構頑張らないと卒業できない可能性が高いです。編入生は通常の大学1・2年生と同じかそれ以上の授業数をこなさなければなりません。それに加えての就活やバイトが待っています。)

正直言って、大学へ行かせてくれた両親や応援していただいた周りの方々には申し訳ないのですが、本当に大学進学は無駄だったと感じます。大卒という学歴はまだまだ現在の日本では社会的優位に立てるとは思いますが、大卒というだけで変な期待とプレッシャーを掛けられますし。僕みたいにこれを学びたいとか人脈をいっぱい増やしたいとかそういった目的がない状態で進学するのは本当に時間とお金の無駄です。大学は主体性を持った人が行く場所ですね。マジで。

 

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

駆け足でざっとですが大学生までの僕の生い立ちを綴ってきました。これだけでも、僕の大体の性格がご理解いただけたのではないでしょうか。

次の記事にて、地獄の社会人編をお送りしていきますので、是非チェックしてください。